WIDEプロジェクトメンバーにとってかけがいのない無い、理解者であり、支援者であり、そして、良き長い友人である井芹昌信さんが2024年6月17日に他界されました。
心よりご冥福をお祈りいたします。
WIDEプロジェクトの起源ともなる日本のUNIXの研究開発者グループは、分散処理そして、コンピュータネットワークの研究という、やや ‘out’ 志向を持ったコミュニティでした。Outという言葉は、ジャズの歴史でよく使われる言葉です。
そもそもコンピュータサイエンスの研究ではオペレーティングシステムはややoutですし、分散処理は密結合のシステムを指していましたし、コンピュータネットワークの研究は電話屋の研究で通信工学があればいい、という状況でした。そこで、コンピュータネットワーク、特に、比較的長距離のコンピュータを接続することなどを狙って始めたJUNETの研究者や技術者は、思いっきりoutで、つまり、社会の中での居場所が定まらない状態で、新しい研究と運用、そして、開拓と普及を担ってきたグループです。
そうした中、井芹さんがアスキー、インプレス社を通じて果たした役割は、全く異なりました。私たちの挑戦的なコミュニティに自ら入り込み、共に議論し、先端開発コミュニティのための出版活動は何かを共に創りだしてくれました。そのような出版物は、新しい分野に挑戦する私たちの活動を力強く支え、拡げ、そして、次の世代の育成までも果たすという、研究・開発・出版が一体となった極めて新しいチームの構造を作り出したと思います。
岩波書店宮内さん、朝日新聞服部さん、日経新聞関口さん、なども、そのようなかかわりを私たちとしていただいた方ですが、特に、bit誌の編集長共立出版小山透さんは、井芹さんと同じように、我々のコミュニティの中に入り込んでこのような出版をされる方でした。のちに近代科学社を経て、井芹さんとの名コンビとなり、大きな貢献をされていったことは多くの方がご存じのとおりです。
個人的には、砂原秀樹、井上庄司と「プロフェショナルUNIX」を1983年ごろから作り始めたことをきっかけに、我が家に泊まり込んで原稿を取り立てるかたわら、次の世界の議論をする、という、井芹さんと彼の出版社、そして、JUNETやWIDEプロジェクトは、いわば、「闇の関係」に陥り始めました。また、あるときはWIDEボードの合宿を香港でやったときにもわざわざ香港まで来ていただいて、インターネットマガジン刊行の議論をWIDEボードと井芹さん、そして、時のbit編集長の羽生田さんとでしたこともありました。
やがて、インターネットのテクノロジは経済や政策に大きなインパクトを与え始め、井芹さんの科学的な知性がこの複雑化したインターネット社会のインパクトを冷静に彼の目で評価するようになりました。定期刊行物である、インターネットマガジンの最後の方のページや付録はインターネット発展を示すデータや地図で極めて貴重な定点観測の役割を果たしました。私たちの研究開発運用と展開への努力を、正確に定点観測して寄り添う、このような出版との連携は世界に類を見ません。我々の開発力、機動力、運営力を、人と社会の目で評価してくれた。それが我々にとっての何よりの宝物となる指標となったのは言うまでもありません。そのような集大成はインターネット白書です。データに基づいたダッシュボード、KPIやその評価は今や社会全体や政策面でも採用されるようにようやくなりましたが、井芹さんは90年代半ばから実現していたのです。
以来、ことあるごとに井芹さんとインプレス社に支えられ私たちの活動を進めることができました。
「日本でインターネットはどのように創られたのか? WIDEプロジェクト20年の挑戦の記録」というWIDEプロジェクトそのものの出版ももちろんですが、井芹さんが取り組んだ、Internet Watch、Impress Watch, や、Next Publishingなどの、ポストインターネット時代への出版界からの挑戦は、我々のインターネットベースのグローバル規模の分散処理環境を追及するWIDEの活動とぴったりと連携して共に成長・発展することができたと思います。
ご家族の配慮に甘えて、井芹さんが他界される二日前に1時間以上、いつものようにお互いに報告したり、議論をすることができました。
長い闘病生活を全く感じさせない、驚くほど元気でシャープな変わらない口調に驚かされましたが、これも井芹さんとご家族の、命を懸けた OUT な積極的闘病形態の選択だと説明してくれました。
闘病生活の弱音は決して語ってくれなかった井芹さん。痛いこと、苦しいことからはようやく解放されたと思います。安らかにお休みください。
WIDEプロジェクト一同を代表して、最大限の敬意と感謝を表したいと思います。井芹さん、ありがとうございました。
2024年6月22日
村井純